北海道に住みたいと言っているだけのブログ

最近頭に浮かんでいることを書いて脳内メモリ開放 version May

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四十肩

奥様が小さい頃からずっとバレーをやっていたのだけど、試合で怪我をして以来は肩が外れやすくなってしまったことから、毎晩腕を腹巻きみたいなバンドで固定してから寝ているのをみて、いつも大変だなぁと思っていた。

その心配がまだ他人事だったからなのかはわからないが、バチが当たったのか、ある日寝ているときに寝ぼけて右手を思いっきり頭の上にあげたところ、肩が外れたかのような猛烈な痛みが生じて悶え苦しむ羽目になった。必死に耐えていたら少しずつ痛みが和らいできてなんとか就寝することはできたが、それ以来腕を大きく上げることに対して恐怖を覚えてしまった。かといって、毎晩腹巻きバンド (仮称) をつけて寝る手間とを天秤にかけると、痛みに対する恐怖を受け入れる方が勝った。

ちなみに痛みの原因を調べたところ、一番可能性が高いのが四十肩とのことだった。まだぜんぜん四十じゃないんだが、身体はもう四十レベルということなのか…。

緊急事態宣言と写真

東京は緊急事態宣言の無限ループが続いている。不要不急の外出が求められているため、相変わらず写真が撮りにくい世の中ではある。一方で、宣言には「屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要なものについては外出の自粛要請の対象外」という但し書きがあった。散歩がてら外に出て写真撮るのはオッケーという判断も解釈によっては可能ということだ。とはいえ、散歩と写真どちらが主目的になるかで変わってくるし、無用なトラブルに巻き込まれるのも御免だったりすることを考えると、腰が重くなる (去年も同じことを言ったような気もする)。

巷ではペンタックスが一眼レフの新作を出してそれなりに売れているなどの快挙を達成しており、自分の中でもある程度のカメラフィーバーが起きてはいるのだが…。なお、冒頭の写真は去年撮ったやつ。

誰かにマウント取られてもいいじゃない

マウントをとる人がいても、それは猿の時代から続く人間の本能だから、できれば何事もなかったかのように接したい。ネガティブにとらえるのではなく、良い方向に昇華できるように持っていくほうが、高度な人間っぽい。

反抗期ときれいな花火

こんな夢を見た。自分が中学~高校くらいの時代で、なんだかわからないけど親にめちゃめちゃキレて、思わず家を飛び出して、自転車でひたすら夜の国道を走って、側道に入ったら大きなマンションの背後から突然きれいな花火がたくさん打ち上がって、心洗われた、というもの。

このときの脳は夢を通して一体何を見せたかったのかが全く謎なのだが、なんかこう「とりあえず花火打っときゃきれいに纏まるだろう」という脳内監督の安っぽい意向を感じた。

そもそも自分はこの時期、反抗期ってなかったなぁ。いや、表立って反抗することはなかったと言う方が正しい。親に反発したい気持ちは間違いなくあったと思うんだけど、反抗期は誰しもが通る時期だと授業で習ったから、あえて反抗しないことで自分は特別だと思い込みたかったんだと思う (ひどい)。

仕事ブログ

家で仕事しているのだけど、仕事机とプライベートでパソコンを触るときの机が同じ場所になっている。オンオフ切り替えの重要性という話もあるので、できれば両者を分けたいのだが、居住空間の問題もあって今の家では難しい。

そうするとオンの気持ちでプライベートのパソコンを触ることになる。さらに言うと、仕事の気持ちでブログを書くことになって、なんかこうあまりポジティブじゃない心持ちになってしまうのが正直なところだ。

思いつく解決策は以下だが、どれも微妙。

  • パソコンではなくスマホタブレットでブログを書く: 画面が小さくてブログを書く気にならない。
  • プライベートのパソコンはノート PC だから、持ち運んで場所を変えてブログを書く: ディスプレイにつなげて大画面じゃないとブログを書く気にならない。

最近はまぁ仕事モードでもしゃあないか、とか思ったり、むしろ気分としてのオンオフの境目がなくなってきた気もする (危険?)。

 

6 時に起きた信じられんホーホー

休日は漏れなく昼近くまで寝坊するのが常ではあったが、先日はなぜか 6 時に目が覚めた。普段ならそこで二度寝かますものだが、このときは寝覚めがめちゃくちゃ良く、そのまま起床にこぎつけることができた。せっかくなので軽く散歩して朝の日差しを浴びた。空気がおいしいし、早朝特有のホーホー (調べてみたらキジバトみたい) という鳴き声が聞けて、なんだか得した気分。でも早起きができたのはその日だけ。あそこまで寝覚めがよかったこと、そしてあのホーホーの鳴き声の正体が鳩だったということ、どちらも信じられん。

飽きるのが怖いから好きな曲でギターの練習ができない

好きな曲をギターで弾けるようになりたいという欲求が頻繁に湧く。弾けるようになるためには練習が不可避なのだが、相当上手い人でない限り、繰り返し曲を聴いたり、同じフレーズを何度も弾くことになる。それによって好きだった曲が飽きちゃうのを怖がってる。

練習以前に、飽きるのが怖いので好きな曲を聴くこと自体が怖い。好きな曲は好きでいたい。とはいえ好きな曲を聴きたいという欲求ももちろんあるので、聴くときは一聴入魂の姿勢で対峙して、悔いのないように聴く。普段食べない高級ステーキを食べるときのような感じ。最初はヤバイこと書いてるかなと思っていたが、これはこれでアリな気がしてきた。

神経質が年々増してきている

といった具合に昔は気にならなかったことがここ数年で気になるようになってきた。枚挙にいとまがないが、日常生活でも細かいところでいちいち脳が反応してくるようになって、微々たるストレスを感じているのが気になる。この積み重ねが将来の寿命を縮めやしないかと心配だ。例えば左利きの人は社会が右利きに作られていることで日々ストレスを受けて早死にしやすいという話もあったりする。また、今はまだマシだけど十年、二十年、... と歳を重ねていったら高齢者になる頃には一体どれだけ細かい人間になっているのかという恐怖もある。

そんな厄介な性質だけどうまく付き合っていくしかない。仕事においてはこの細かさが成果物のクオリティにもプラスに影響してくるので、良い面もある。