日常 (5 月)


突然だが、子どもが保育園に行ってくれていることに、日々敬意を抱いている。
保育園に行く。ごく普通のことだけど、とてもじゃないが自分にとっては普通のこととは思えない。
以前から何度か日記に書いているのだが、私は幼稚園中退という実績を持っており、しょうもない武勇伝として時折出すことがある。
毎朝起きるのが辛かったこと、給食のパック牛乳がマズすぎて何度も吐いたこと、協調性がなさすぎてお友達との遊びを一切楽しめなかったことなどが退園の主因である。
運がよかったのは、家が貧乏だったから、「幼稚園を辞めたい」などという甘ったれたことをすんなり受け入れてくれたことだろうか。私立の幼稚園しか近くになかったからそこに行かざるを得ず、お金もかかっていたのだろうと推測する。
(さらに運がよかったのは、当然、こんなガキンチョは義務教育が始まって大いに苦労したのだが、奇跡的に大学まで行って社会人をやれていること)
しれっと、子どもに「保育園楽しい?」なんて聞くと「楽しい」なんて返しよる。神かよ。
しかも先日の夜なんて「早く保育園行きたい」なんて言いよる。仏かよ。本当に俺の子か。いや俺の子だ。
とはいえ、たまに行き渋る朝だってある。
YouTube の魔の手である。
家のテレビが Android TV などというものになっていたばかりに、リモコンのボタンひとつで YouTube が起動できるようになっている。一度覚えてしまえばお手の物である。登園前に YouTube を見てしまうとなかなか抜け出せない。
とはいえこれは親のエゴそのものだが、あまり制限というものをしたくない。YouTube の設定でパスワードをかけてしまえば一発で制限をかけることが可能だ。ただ、縛られた生活というのは短期的には成果を出すが、長期的にはリスクを伴うものだという持論がある。
身近に感じたのは大学生になりたての頃だったのだけど、親にゲームを制限されていた人ほど大学に入ってからゲーム廃人になる (そして留年する) 人が多いなあという印象があった。親の導きがないと自制が効かなくなる典型だなぁと思った。
だからといって幼児期から YouTube を見放題にさせていいのかという突っ込みどころはあるのだけど、幼いころから自制を学ぶチャンスが到来しているのだという見方をしている。
また、そもそも大人ですら SNS やらスマホやらに大いに依存してしまっているのだから、むしろ依存を受け入れた上で、どう折り合いを付けながらまっとうに生きていくか、を考えていく方が良いのではないかという考えも持っている。
現状はなんとか登園できているが、これが小学校、中学校となってきて行き渋ったときにどうするか。これは前もって考えておかなければいけないことである。
そんな魔の手と戦いながら、駄々をこねつつも最終的に登園してくれる子どもは、とても凄くて偉いし、すでに父を超えている。
半年ごとに欠かさず行ってる宮島沼。

今回はねぐら入り (夕方) を選択。


いつまでもこの奇跡を残していきたい。




そうこうしているうちに、もうすぐ秋のマガン (10 月) のシーズンだ。
けど、今回は諸般の事情で見送る予定。次回は来年の春。

今年はこれといった花見をしなかった。唯一、大通 (西側) を歩いたときに桜を撮った。

昭和の五輪で札幌は大きく発展したので、こうしたモニュメントが残されている。
また冬季五輪の札幌招致を狙っているようだけど、札幌への交通インフラが現時点でもパンパンなのでちょっと厳しない?という感覚があったりするなぁ。